戦後客車の列車編成

電車が全盛時代の今となっては客車はほんの僅かしか有りませんが、終戦直後からJRに以降するまでの間はどこかに必ず客車列車がありました。
私自身は旧型の客車から20系〜24系ブルートレインまで幅広く乗っていた事も有り模型化するに当たって模型を
編成に入れる時の参考になればとの思いからその時代背景と共に解説をしています。

最新更新日 令和2年7月31日

マイフ97 1 誕生と編成
(交友社 回想の旅客車等複数誌より引用)
マイフ97 1は連合軍巡察車として昭和21年に事故に遭ったオハフ33を改造して昭和25年4月にスヤ51 1として落成しました。
巡察車は当時の英米駐留軍の各司令官用(師団長クラス)としての使用が予定されており、
スヤ51 1はマッカーサー専用として用意された模様です。

内装は当時の1等車と同じでチーク材にブラウンニス仕上げで重厚な感じになっています。
向きはマイテ等の展望車と同じ向きで東京側に向かって展望室があります。
内装に使う生地はアメリカ軍からの支給品で当時の日本には無かった生地が使われています。
(この辺りは軍専用列車の改造車でクラブ車等の豪華設備をもった車輛もほぼ同じやり方です)
クーラーは改造当初に搭載されており最新型のKM−4を装備しています。(マイネ40と同じ)
但しマッカーサー本人はほとんどを東京で過ごした為、それ以外の米国高官用として使われています。
(当時はダレス国務長官が日本に良く来ておりその分の使用は多いと思われます)
マッカーサーが東京以外に行っているのはこの年の7月に朝鮮戦争が勃発しており7月に水原まで視察した程度で
その後の仁川上陸作戦の時は佐世保から強襲揚陸艦リッジウェイで指揮を執った後すぐに帰着しています。
車輛自体はそういった経緯で昭和26年には接収解除となり27年には外国人旅行客用としてスイ46 1に改番されます。
この時は便宜上の改番のみで改造は施されていない模様です。この頃には台車はTR40Aに変わっています。
昭和28年の称号改正でマイフ97 1となります。
この頃になると接収解除となった車輛がほぼ返還整備されて使える様になり、外国人専用の観光列車として使われる事が多くなりました。
スイ38・マイネ48・マイネロ37等と主に東京と京都・大阪間を走りますがこの頃に次第に余剰となっていきます。
(この列車は最初は軍専用で最低でも並ロでマロネ29・マイネロ37・マイネ48という豪華編成)
これは一般営業としての特急・急行が復活したためで特に専用列車を仕立てるまでにはなく
一般営業化された列車の増結車としての運用に移っていく他ならなくなったからと思います。
この頃の急行彗星もマロネ49が連結されています。(ダブルルーフですが空調付きの個室寝台で二等Aの区分)
スイ38冷房取り付けでマイ38となり空調付きの開放1等車として昭和32年から青大将色でつばめ・はとに増結されています。

次の仕事としては外国要人に対する貴賓車としての運行で御料車14号やマシ38と共に天皇の差し回し列車として
仕立てられる機会が多くなっていきます。(一等車の内装を持っている車輛はかなり少なくなっています)
昭和32年になって冷房の更新・台車の履き替え・室内の再整備を行い翌33年の第1回ARC展は東京・博多間の特別招待列車
として往復しています。(編成内容は不明)
マイフ97 1 再整備内容

台車の履き換え(昭和29年OK−3→ TR57空気バネ台車)
冷房装置の入れ替え(KM−4から KM−2へダウングレード)
冷房装置の空いた場所に大型温水タンクを設置してシャワールーム設置
冷房装置の入れ替えはKM−4のブラインタンクが重量が大きい割に連続走行すれば蓄熱による冷房の必要性も低くなり
当時KM−2はかなりの余剰化状態になっていたので簡単に取り替える事が可能だったため
(KM−3は塩水に拠る蓄熱冷却回路が有るが、KM−2には無く軽い・コンプレッサーは強化されていると思われる)

貴賓客運用が多いのは昭和33年からで9月のインド大統領の時は次の編成でした。
東京→京都
EF58 61 オロフ32 7 マロネ29 114 スシ28 151 マロネ40 11 御料車14号 マイフ97 1
12月 フィリピン大統領
東京→京都
EF58 61 オロフ33 4 マロネ29 114 マシ38 4 マロネ40 2 マロネ49 3 御料車14号 マイフ97 1

この頃が一番活躍していた時期ではないかと思われます。
この時の御料車14号は菊の紋章付きで機関車もお召し並みとなっています。
(EF58の日本国旗の交差は無く日本と招待国の交差)

昭和40年を過ぎると秋葉原−御徒町間の留置線に置かれてその後に中央鉄道学園(現鉄道総研)で教材として保存されていました
中央鉄道学園が無くなると建物と一緒に解体されて消滅しました。


青大将色の編成解説

(出典元 鉄道ファン誌より引用)

青大将色にスハ44系が塗り替えられて営業を開始したのは昭和31年11月19日で東海道線の全線電化(米原−京都間が最後)
でこの前の9月辺りから塗り替え工事を実施してつばめ・はとに充当されました。
この最初の段階で淡緑5号に塗り替えられたのは合計70輛です。(当初は5本+予備車)
この改正では 夜行特急 あさかぜ が運行開始となっています。
青大将色は昭和35年5月31日まで昼間客車特急の白眉として営業運転をしています。
昭和30年の7月より一等車廃止後もマイテ39・49・58 マイ38 マイフ97 は一等車廃止の特例対象外車輛となっています。
青大将色終了のその後しばらくの間一部の車輛は淡緑5号のまま使われていたりしています。
(団体専用車としてマイテ49はマロテ49で青大将色の青帯付き・マイ39もマロとして同じ)

昭和31年11月19日(青大将の初日) 東京発つばめ 
牽引機 EF58 89 記念ヘッドマーク掲示

編成定数10輛 増結スハ44 1輛(増4号車)

EF58 57 スハニ35 スハ44 スハ44 スハ44 スハ44 スロ54 スロ54 オシ17 スロ54 スロ54 マイテ39 1

オシ17の予備編成車としてマシ29 101がこの70輛の中に入っています。
(オシ17 1〜4はボディの新製から淡緑5号で出場してもう1本にマシ29101が入っているので計5本体制)

EF58 スハニ35 スハ44 スハ44 スハ44 スロ54 スロ54 マシ29101 スロ54 スロ54 マイテ39 21

スロ54はナロ10が完成すると入れ替わっています。(昭和32年新製の1〜28・4輛×7本体制)
スハ44は全てが淡緑5号の塗り替えを行っていません。竹下配置車はブドウ1号のままです。(かもめ運用車)
マシ35 11・12は31年末からブドウ1号のままでオシ17の点検時に代用で入っており32年頃に塗り替えを行って
食堂車は7輛体制で運用されています。
展望車は当初マイテ39 1、21・49 2・58 1、2の5輛体制・マイ38 2輛でマイ38は増結運用で定期ではありません
展望車はその後にとマイテ49 1が青大将色になり現役全車が青大将色になります。
この時にマイテ39 11は桃山式のままで予備扱い(内装が霊柩車的と言われていた)
スイテ48 1は現役復帰が最後まで有りませんでした。(スイ99 1の解除から事務室代用となっている)

編成は当初は基本10輛でしたがナロ10が入ってから大体13〜14輛での運用となっています。
スハ44とナロ10はほぼ同じ比率で編成が出来ています。(スハニ・スハ4輛・ナロ4輛が標準構成)

牽引機のEF58は初日の東京発の57号機と大阪発の89号機以外は未だ出来ておらず翌年の3月までに
順次塗り替えを行い最終的には東京機関区 11輛 宮原機関区 13輛の24輛体制で運用しています。
EF58は青大将色のままで荷物車等の牽引にも使われています。


マイネ40・41の誕生の経緯とその後の使用状況・列車編成
(出典先 各社時刻表の列車編成と車輛配置表・鉄道ファン等の雑誌から)

マイネ40は昭和23年・マイネ41は昭和24年に完成していますが、元々の経緯は連合軍専用車としての要求から始まります。
(接収していた1等車の主力は31・32系のダブルルーフ車で個室装備と区分室装備が少ないという理由)
個室装備の有る車輌は戦前でも極一部なので接収車輛を改造してオイ・オイネをある程度の輛数を揃えています。
この要求の中には後に特ロとなるスロ60・50も含まれています。接収した一等車や並ロでは狭すぎるという事からです。
但し予算と製作費用は紆余曲折の後に鉄道省持ちという事にされてしまい最終的には鉄道省の予算で造られています。
(各車輛メーカーには正式要求から数ヶ月以内に納車と言われており先行してある程度の輛数をすでに製作していた)
マイネ40・41の開放室寝台のプルマン式は当時の欧州・米国の標準がこの方式だったため要求の中に入っていた為実現となりました。
(当初の日本案は2等寝台として製作する予定で後のスロネ30に近い案を提出していました)
そして戦後始めての日本人用新製寝台車となりました。当時はまだ夜行特急は無いので急行への連結が主流で特急に連結されたのは
さちかぜ・あさかぜの夜行特急が出てきてからという事になります。最初は後の急行銀河で昭和24年9月に1・2等のみの編成

昭和24年9月 急行1・2レ(列車名はまだ無い・後に銀河・彗星となります)
←大阪 1レ                                          2レ  東京→
マニ マイネ40 マイネ40 オロ40 オロ40 オロ40 オロ40 オロフ32

この後に3等座席車を組み込んで14輛編成になります。

昭和28年3月 急行 銀河
←神戸(大阪より延伸)13レ                                                        14レ東京→
マニ マイネ40 マイネ41 スロネ30 スロネ30 スロ53 スロ53 オロ40 オロ40 スハ スハ スハ スハ スハ スハフ

急行 彗星
←大阪15レ                                                                  16レ東京→
マニ マイネ41 スロネ30 スロネ30 スロ53 スロ53 オロ40 オロ40 スハ スハ スハ スハ スハ スハ スハフ

この時点で基本的な列車編成になります。(月光は座席車編成)
この頃になると接収された車輛もかなり返還されていて戦前よりも列車数は多くなっています。

昭和31年11月19日に夜行特急 あさかぜ が出来て戦後始めての夜行特急となります。
(ナハネ10はこの年の3月から11月にかけて100輛を配置)

オハ二36 ナハネ10 ナハネ10 ナハネ10 ナハ10 ナハフ10 マシ35 スロ54 マロネ40 マロネフ29

マイネ41は基本的に東海道・山陽路での使用とほぼ限定されています。
マイネ40は輛数的にも余裕がありましたが、マイネ41は12輛と少ないのと冷房装置の問題で虎の子的運用になっています。
戦後型の2等寝台車スロネ30も当時は東海道・山陽路の運用が中心でした。


急行 日本海

(出典先 各社時刻表の列車編成と車輛配置表・鉄道ファン等の雑誌から)
昭和22年から501・502レとして運行を開始して昭和25年11月より愛称として日本海となります。

マニ マニ マニ マユ オロ35 スハシ29 スハ スハ スハ スハ スハ スハ スロ60

2号車のスハシは調理室付き3等車で食堂としての営業は不明
9号車のスロ60は大阪・富山間の増結

昭和30年10月 この時点でほぼ基本的な編成が出来ています。
マニ スユ マロネロ38 スロ50 オロ35 スハ スハ スハ スハ スハフ スハフ マロネロ38

9号車のスハフは秋田で解結・10号車のマロネロは増結で富山で解結

昭和31年11月
マニ スユ ナハネ10 マロネロ38 スロ50 オロ35 スハシ38 オハ46 オハ オハ オハ スハフ42 スハフ42 マロネ29 スハフ42
マロネ29とスハフ42は増結時で富山で解結
スハフ42の1輛は秋田で解結

昭和30年代中頃までは大体この編成で(基本11輌)後年にマロネロの代わりにオロネ10が入りスハシ38の代わりにオシ17が入って
並ロの変わりにナハネ10、オハ46に変わってナハ10に入れ替わっていきます。
最終状態になると2等車がオロ61の他は座席車が10系になり、昇格して20系寝台車特急にされていきます。
補完列車として急行きたぐにがこの時に誕生


受け持ちは当初から向日町でスハシ29−100は北海道配置の車輛を転属させて3輛で運用
オシ17に入れ替わった段階で交通博物館へ展示する為スシ28−301という番号で全室食堂車化(元スハシ38−102)
本線での営業は有りませんがC53−45の復活運転の際に京都・神戸間で本線上を走行しています。


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